Hello world!nora3です。
さあ!本日も精神的準備編、進めていきますよー!
今日は精神的準備の❸「正しい演技を知る」についてお話していきます。まだこれから書くのでわかりませんが、すっごく長い記事になる気がします・・・。
なぜ長くなりそうな気がするかというと・・・演技というものはテレビや映画で身近に観れて、誰もが親しんでいる割には、誤解や偏見というものがついてまわりやすいものだなあと、常日頃から感じているからです。
おそらく、演劇部に入るとかプロの俳優を目指すとかしない限り、一般の人にとっては幼稚園や小学校でのお遊戯や発表会が人生でほとんど唯一の演技機会だったりするので、こっ恥ずかしいとか二度とやりたくないとかの思いだけが残って、その後は「ただ息抜きや楽しみで観るだけのもの」として付き合っているので、俳優が演じるために実際なにをしているかとか、本物の演技とはなにかとか、そんなことは考える必要がなく、ただ作品だけを見て、そこからあれこれ想像して、好きなように語っているからで、これはもちろんそれで全然構わないわけですが。
しかし、自分が演じようと思った場合は、そのままではいけません。誤解や偏見を解いて、正しい演技とはどういうものかを知る必要があります。たとえ部品や素材が全部揃っていたとしても、設計図や説明書や手順書がおかしければ、やはりへんてこりんなものが出来上がってしまうからです。
演技の世界で設計図や説明書に当たるものはシナリオや戯曲ですが、俳優には俳優の「役を作るための」設計図や説明書が必要であり、それが「正しい演技」の知識ということになります。正しい知識が、役作りや演技がおかしな方向に進むことを防ぎ、演じる人の進むべき道を照らし出してくれます。
それでは、これから「正しい演技」に分類される事柄をいくつか挙げていきたいと思いますが、もちろんこれらは「正しい演技」の全てではありません。「正しい演技」の種は、日常生活の中にあり、そこからいくらでも「発見」できるものです。種を自分で発見するための「考え方の方向性」の例として挙げておきます。
1.嘘はつかない。
2.薄くてもいいからコーヒーを出せ。
3.顔は放っておけ。
4.泣くな。泣いたら涙を拭け。
5.セリフを喋るな。ただ喋れ。
6.演技プランを練るな。目的だけ持て。
7.細部から作るな。役は大づかみに。
8.作った役にこだわるな。粘土のように変幻自在に。
えーと。まだまだあるんですが、絶対長くなるのでこのくらいにします。考え方の方向性の参考にするには充分でしょう。
たぶんめちゃくちゃわかりづらいと思うので説明していきます。
たぶんこれが、演技に対して、最も多くの誤解と偏見を含む部分でしょう。
「俳優は嘘をつくのが上手い」
「あの女優は演技が上手いから嘘も上手いはず」
「あんたは嘘が上手だから俳優にでもなったら?」
「演技であんなに泣けるんだから詐欺師になったらきっとスゴイぞ」
とか。
結局、「演技」イコール「嘘」という認識が結構根深くあると思います。
現実ではないことを、あたかも現実のように演じて、泣いたり笑ったり怒ったりしているわけですから、「あれは嘘だ」「まるで現実みたいな嘘だ」と思われるのもある意味仕方ないことなのかなとは思いますが。
でも違うんです。実際には嘘をつくのが下手くそな人こそ俳優に向いています。嘘をついたらたちまち挙動不審になったり、顔が真っ赤になってしまう人ほど、演じることに向いているし、俳優はそういう敏感な心と身体を無くしてはいけません。
「嘘」が上手く見えるのは、俳優が「嘘」を「嘘だと思っていない」からです。
目の前で繰り広げられる「現実ではない世界」を「現実だと信じる」力が俳優の力であり、そのための訓練であり方法であり、準備です。
実際に俳優が演じる「役」は「物語の中」に生きているけれども、俳優自身は撮影現場や舞台上の現実の中で、目の前の出来事を「信じて」いるんです。
だからアレは「嘘」じゃないんです。
嘘が上手いからって、俳優を目指してはいけません。
そして、演じる側になったら「嘘」をついてはいけません。
喫茶店に入ってコーヒーを注文したのに、クリームソーダが出てきたら怒りますよね?
いや怒らないかもしれないけど、苦情を言うなり取り替えてもらうなりしますよね?
これはそういう話です。
劇的な演技、結構。意表をついた演技、それもアリ。見たこともない演技、素晴らしい。
ただし、それがオーダー通りなら。
中身が空っぽなのもダメです。コーヒーカップから湯気が上がっているから遠くから見たらコーヒーみたいだけど、実際飲もうとしたら中身が入ってないとか、ダメでしょう?
コーヒーを頼まれたら意地でもコーヒーを出す。俳優も人間ですから、いつでも素晴らしいコーヒーを出せるとは限らない。でも、たとえどんなに薄くても、コーヒーを要求されたらコーヒーを出す。
コーヒーが品切れだからって、勝手に違うものを出してはいけません。
見た目だけでもダメです。ちゃんと、もしくは少しだけでも、コーヒーの味がしないといけません。
当たり前のことのようですが、なんか閃いたのかオーダー以外のことをしちゃったり、オーダー通りにできないので違うことで誤魔化したり、そもそもオーダーの品を持ってなかったり、様々な自分側の都合で、オーダーを勝手に変えちゃう人、結構いるので。
しかも俳優はコーヒー専門店ではありません。なにを注文されるかわからない和洋中華インド料理なんでもござれの間口の広い店なので、どんなオーダーが入るかわかりませんが、なにをオーダーされようとも、なんとかかんとかソレを出す。たとえ薄かろうが薄味だろうが、最悪具材がいくつか足りなかったとしても、カレーを注文されたら、食べた人が「うん。これはカレーだね」と思えるものを意地でも出す。
自分一人でやってるわけじゃないので。
好きなようにやってちゃダメってことですね。
顔だけじゃなくて身体もですけど、まあ、特に顔、です。
悪い人を演じる時にわかりやすく悪い人みたいな顔をしたり。何か企んでいる時に何か企んでるみたいな顔をしたり。復讐に燃えているときに復讐に燃えているような顔をしたり。隠し事がバレそうで挙動不審になっている時に隠し事がバレそうで挙動不審になっているような顔をしたり。
そういうことが多すぎる。普通の生活の中でそんなことします?
人間も野生動物なんで、同種の動物である他人の内面でなにか大きな動きや変化があれば、顔なんかいつも通りでも、なんとなくそれを察します。同じく内面でなんの動きもないのに、内的葛藤の結果であるはずの顔だけを作って表現されても、中身空っぽだってことを察してしまいます。たとえこちらが察したくなくても。
良い俳優は、心の動きに繊細に反応する身体を、身体の動きに繊細に反応する心を、身に付けて維持するための訓練を欠かしません。ですから心が動けば、出そうとしなくても結果として出るべきものは既に出ているわけです。内的な動きに影響を受けて身体が変化するのが正しい順序で、その逆もまたしかりですが、現実の世界はみんなそういう仕組みになっていますから、物語の中とはいえ、誰もが知っているプロセスを飛ばしていきなり結果だけ提示されても、それは違和感を感じてしまいます。ああ、これは嘘だなって。
ですので、鏡の前で顔を作ったりする練習は今すぐ止めましょう。
顔は、放っておくのが一番です。
無きゃ困るけど、付いてればそれで良いや、くらいの感じで。
そして、顔の代わりに「目的」を作りましょう。
役に強い「目的」を設定することで、心が激しく動き、結果として「いい顔」になります。
シナリオのト書きに書いてあったりするんですよね・・・。
” A子の眼から止めどなく涙が溢れる 。”
とか。
そういうシナリオにも問題あると思うんですけど。
とにかくそう書いてあると、それを演じる俳優としては、「うっ!ここで止めどなく涙を流さなくては・・・!」と思ってしまうわけで。
なんだか涙を流すことがそのシーンの目的みたいになってしまう。
で、悪戦苦闘の末に、ついに涙が出た。となると、その俳優としては「やった!涙出た!せっかく出たんだから大事にしなきゃ!」みたいな感じになって、頬を伝う涙を拭おうともせず、これみよがしに見せつけながらの演技続行となる。
この時点で、僕なんかはもう引いてしまう。興醒めしてしまいます。
普通拭きません?涙って。
もちろん涙を拭かないほうが自然なシチュエーション(部屋に自分一人で、なおかつ泣いている自分に浸りたい時とか?)っていうのもあるでしょうが、目の前や周りに誰かがいる状況で、涙が出そうなほど感情が高まって、それだけでも結構恥ずかしいのに、実際に涙がどんどん出てきてしまったら、拭いますよね?泣いてないように取り繕うには手遅れだけど、それでも涙を拭いて、泣き止む努力をしようとすると思うんですが。
でもまあ、人とか状況によるのか?
それでもとにかく、涙流しっぱなしの演技が多すぎると思います。真面目に取り組んでる俳優の中にも、「泣くことはいいことだ」「すぐにいっぱい泣けるのがいい俳優」みたいな思い込みがあるように感じます。
普通、大人は人前で泣かないようにしませんか?
泣いちゃったら隠しませんか?
もちろん俳優は泣く必要がある場合も出てくるけれど、それは「顔」の場合と同じく、内面の激しい動きがあって、それに身体が影響を受けて、泣きたくないのに、堪えたいのに堪えきれずに涙が溢れて、ついには堪えていた気持ちが切れて、結果として泣いてしまう、というような順序を辿るわけで、そこまできてもまだ、泣いている顔を見られたくない、鼻水出てないかしら、明日顔腫れちゃう、みたいなことを考えて、両手で顔を覆ったり、洋服の肘のトコで顔を隠したりするのが一般的じゃないですかね現実の世界では。
涙ダーダー流しながら、綺麗なままの顔で愛を語るなんて、全然フツーじゃありません。
映画やドラマや舞台で役をもらうと、シナリオや戯曲を渡されるわけです。
長くて本番の数ヶ月前、短くても一週間前くらいには。
で、本番までの間、手元にあるわけですよね。その台本が。
そうすると、真面目な俳優ほどヤリ始めるわけです。
「このセリフはどういう風にしゃべろうかな?」
「大声で怒鳴るように言ったら効果的かな?」
「ここは語尾をちょっと上げたほうが気持ちを表現できるかも」
「こことここの間は、そうだな、3秒くらい間を取るといい感じだな」
「このセリフはちょっと早口で言いたいから練習しなきゃ」
そうして、部屋やら稽古場やらで、セリフを覚えながら繰り返し繰り返し練習して、ついに身につけるわけです。
全く使い物にならない「固まった」セリフ回しを。
それなりの努力を払ってまで、大きな漬物石を背負い込み、知らずに浅漬けになるようなものです。
本当に、こういういらない努力をしている人が、日本中に山ほどいると思います。
教わってないので知らないのもしょうがないかもしれませんが、でも、こういう大事なトコロは自分でも気付かなきゃいけません。
ちょっと考えればわかることです。人は普段、そういう風には喋っていません。
なにか喋る時に、どういう風にしゃべろうか、声の大きさはどれくらいにするか、語尾はどうする、間は、速度は、みたいなことを考えて決めて練習して、よしじゃあいよいよ喋りましょうなんて、そんなことやってる人見たことあります?
人前でスピーチなんかする場合に、下書きやらメモを作って、それを覚えて練習して、どう話したら効果的か考えたりすることはもちろんありますが、それにしたって本番は練習通りにいかないのが常なので、あまりガチガチに固めず、トラブルやアドリブに対応できる余白を残す必要があります。
物語の中であろうと、そこはその世界の日常ですから、会話は「今この場で生まれるもの」として、完全に瞬発的、即興的、アドリブ的な方が良いわけです。そしてみなさんご存知のように会話はキャッチボールですから、声の大きさやら語尾やら間やら速さやらを、自分一人で決めることはできません。自分で決めたところにグローブを構えていても、そこにボールが来るとは限りません。というか来ませんので。
物語の中でも時間は現在進行形で流れていますので、俳優は次のセリフを知っていてはいけません。いや、台本を読んでいるので知っているし、覚えてなきゃいけないんですが、でも役としては知っていたらダメなんです。相手のセリフは全て、その時初めて聞いたものだし、自分のセリフは基本的に今生まれたばっかりの言葉です。
「顔」のところで言いましたが、怒っているようなセリフを「怒って言うセリフ」、疑ってるようなセリフを「疑いながら言うセリフ」、楽しげなセリフを「楽しげな感じで言うセリフ」と、思い込んで覚えるのも考えものです。
「ばか」というのが有名ですが、本来言葉が持っている意味とは違う使い方がたくさんあります。愛情、呆れ、喜び、笑い、驚き、失意、悲しみ、そして怒り。もっとあるけど、それらの感情の全てを「ばか」というセリフで表現できます。
だから、セリフの言い方は決められません。
練習しないでください。
会話は相手との間で「その瞬間」生まれるものです。
セリフは言い方を考えず、抑揚なく、ただ、覚えてください。
そして覚えたら、「忘れないように忘れる」努力をしましょう。
これもセリフと同じなので、ここは短めにいきましょう。
台本を読んでも、どう動こうかとか、考えないでください。
ここのセリフで机を叩き、このセリフで立ち上がって、このセリフを喋りながら窓際まで行って振り返り、ひとしきり顎髭を撫で回してもったいをつけてから、相手を指差してこのセリフでトドメを刺す!とか考えてるのは最低です。
実際に本番になれば、なんらかの動きはするわけですが、それは「顔」と同じく内面の動きの現れであり、動きだけ先に決めても意味はありません。
また本番では、カメラや照明や諸々の関係で、動きは制限され、完全に決められる場合も多いです。自分のプラン通りには動けません。
そうは言っても、なにか決めておかないと不安で、という人は「目的」だけ決めてください。
その役やシーンにおける「目的」。
自分が意識しているしていないに関わらず、人間の行動には全て「目的」があると言われています。
「目的」があるから人は、役は、行動するわけです。
ただ鼻の頭を掻くだけでも、軽くため息を吐くのにも、そこには「目的」があります。
セリフを覚えて忘れ、ただその「目的」を達成するために場面やシーンに臨めば、身体が勝手に動き、セリフが役のその時の声になります。
あ。そうは言っても演出家やスタッフさんの指示には従ってくださいね・・・。
これも台本を読んでいる時に多いんですが、例えば
「うーん。この役は神経質そうだし、気が小さいから・・・この場面で爪を噛もう!」とか
「酔っ払いの荒くれ者だから、このシーンでは爪楊枝をくわえていよう!」とか
「半グレっぽいから・・・ピアスを付けるか!」とか
役作りをする時に、ちょっとしたクセとかファッションとか趣味嗜好とか小道具とか、細かい所から入ろうとする人が結構いますが、そういう細かい「仕上げのタッチ」的なことは、やるなら最後の仕上げでトッピング的にやった方が全然良いと思います。
役のキャラクターを出そうと思って、それぞれのシーンや場面で、ここでアレをやろう、ここではコレをしよう、と細かく決めていくと、最終的に整合性が取れなくなり、よくわからないキャラになったりします。また、役の自由度が低くなり、身動きが取りづらく、ちょっとしたことで「役」から外れてしまったりします。
丸太から木像を彫り出すのにいきなり彫刻刀で始めるようなもので、思った形になるのに時間がかかるし、全体のバランスなんかもおかしくなります。
丸太から木像を彫り出すなら、最初はやっぱり斧やら使ってザックザックと不要な部分を引っぺがし、次にノミやら使ってバランス整え、しかるのちに短刀なり彫刻刀なり使って細部を彫り進め、最終的に細っそい彫刻刀でアーチストタッチを施して、完成するのが道理でしょう。
絵画でいうところの「デッサン」と一緒です。最初から描き込まず、まずは全体の大きさや形を大まかに決めバランスを整え、少しづつ大きな線から描いていき、だんだんと細部まで描き込んでいく。
この「デッサン力」が演じるためにも必要です。
まずは役を「大づかみ」にしてしまいましょう。
この方法の良いところは、役の自由度が高いということです。ラフ画のように荒削りでもバランスは整えてあるので、アドリブやハプニングにも強く、自由に振る舞い動き回っても「役」から外れにくいです。また「根っこ」の部分で演じている感があって、やっていて楽なので、例えば一日中でもその役でいることができます。
そうやって楽に大づかみに役を演じながら、演出家や相手役と相談して彫刻刀で微調整し、必要なら仕上げやアーチストタッチ(最後のちょっとした味付け)を加えていきます。
で、じゃあ実際「大づかみ」ってどうやるの?って話ですが、これは演技の一番面白くて美味しい部分で、ちょっとボリューム大きくなると思うので、また今度ゆっくりやりたいと思いますが、この間の記事にちょっとヒントになることを書いていたので貼っておきます。参考にしてください。
小学生の時に寝ずに作った粘土細工の蛙を友達に壊されて、教室で大暴れした過去を持つ僕が偉そうに言える立場でもないですが。
作った「役」は、演じる人にとってある意味「作品」でもあるので、大切に感じるのはわかるのですが、しかし反面「役」は「材料」でもあるので、世に生まれ出た直後からグチャグチャにされることが決まっている存在でもあります。
だから固めて「完成」させない方がいいです。
デッサンの話で言えば、ラフ画に細部を描き込んでいきますが、ラフな線も消さずに残しておいて、強負荷で細部がグチャグチャになっても、何度でもラフな線を頼りに復活し描き続けられるような状態でいるのがいいと思います。
「役」も人間なので、そんなに簡単にダメにならないし、傷を負っても治癒してさらに強くなり、寿命を迎えるまでは成長し続ける・・・そんな風に役作りしていけたら素晴らしいと思います。
僕の蛙みたいにカチカチに固まった粘土じゃなくて、どんな形にも変幻自在で、いつまでも柔らかいままの粘土。
そんな風に「役」を作りましょう。
というわけで。
やっぱり超長くなっちゃいましたぁ!
超疲れたので、もう今日はビールでもカッくらって寝てしまいましょう。
どうもお付き合いありがとうございました!