菅田将暉さんの演技について語ってみる!

演技的雑談
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Hello world!nora3です。

前回、木村拓哉さんの演技について語ってみたんですが、ちょっとそれと対比して語ってみたい俳優さんがいますので、今回はそのヒトの演技について語り、木村さんの演技との相違点などについても触れてみたいと思います。

 

 

さて、今日語りたいそのヒトとは・・・ズバリ菅田将暉さん!です。

実はnora3的には、今の日本の若い人達ってスゴイなーと常々思っているんですよね。韓国との対比の回でも書いたと思うんですが、色んな所で色んな人が草の根アンダーグラウンド的に自分の好きな事、やりたい事を突き詰めていて、昭和の頃からずっとある、日本人の特徴とも言える「人と同じように振る舞うべき」とか「みんなと同じが安心」みたいな感覚がどんどん無くなってきて、「人との違い」をどんどん楽しめるようになってきている。そしてその草の根があっという間にメインストリームとなって時代をどんどんアップデートしていく。とにかく多種多様。なんでもアリな世代で、何をやるかよりも、自分の興味の赴くままにどれだけ打ち込めるかによって、その人独自の世界があちこちで確立され、日本人のサブカル好きも相まって、どんどん認知受容されていく。

昭和の高度成長期を経て、日本は一時世界第2位の経済大国にまでなったけれど、それでも日本人は本当の自信を持つことができず、欧米のマネばかりしていました。それが今、日本発のカルチャーが世界でもてはやされ、カルチャーでも世界を引っ張る面が多々出てきて、ついに日本人も失われたアイデンティティーを取り戻しつつある。あるいは新たに見出しつつある。

そういうことかもしれません。

 

 

前置きが長くなりましたが、話を演技に戻すと、どんどんいい俳優さんも出てきていて、ドラマを見ても映画を見ても「みんなスゴイなあ(溜息)」というのが日本の今の演技シーンに対するnora3の偽らざる感想です。

その中でも、一番目立っているというか、時代の寵児的ポジションに飄々と位置し続けているのが、今日お話しする菅田将暉さんです。

ホントに「飄々と」しているんですよね。僕は子供の頃からムーミンに出てくるスナフキンが好きで、ああいう飄々とした人物になりたいとずっと思って生きてきた人なんです実は。残念ながら結果としてはただの暑苦しいオジサンになってしまいましたが。

まあ僕のことはどうでもよくて、とにかく菅田さんは飄々としている。アレはどこから来るんですかね?どんなに全力出し切っていても、どこか脱力しているような・・・どんなに深刻になっても、どこか面白がっているような・・・どんなに一杯一杯でも、どこかに余白があるような・・・。

たぶんこれは、全くの僕の想像というか、彼から受ける印象ですけど、彼は今自分がいる「時代の寵児的ポジション」に全く執着してないんじゃないでしょうか。仲間を愛し、現場を愛し、人との繋がりに導かれるまま、今楽しいからやっている。もし自分の興味の対象が変われば、彼は今のポジションも俳優という職業も軽々と脱ぎ捨てて、飄々とスナフキンのように去ってしまうような気がします。もちろん転身した先でも彼の独特な世界が確立されることは容易に想像できますが。

まあそれは、菅田さん本人の話。

彼の演技の話をしましょう。

彼の演技からは「菅田将暉はこうでなければいけない」といったセルフマネジメント的要素は、ほとんど感じられません。彼のいるポジションからは考えられないくらい、とっても自由。事務所のスタッフや周りの大人が彼の良さをよく理解してるんでしょうね。色んなしがらみから解き放たれて、とっても自由なスタンスで演じていると感じます。

前回お話しした木村拓哉さんと、ある意味対極にある俳優さんと言えるかもしれません。

役作りにしてもそうです。お二人とも大変たくさんの役を演じておられますが、木村さんが「何をやってもキムタク」と言われてしまう(木村さんファンの皆さんごめんなさい。彼には彼の事情があるのは前回参照お願いします!)のに対し、菅田さんの場合は「何をやってもソノヤク(その役)」って感じがします。

実際、菅田さんは役ごとに毎回「違った人」になりますし、ただ違っているだけではなくて、その演技を「彼にしかできない表現」だと思わせるというオマケまでついてくることが多いです。

木村さんの演技と菅田さんの演技。

この違いは一体どこからくるんでしょう。

木村さんの演技は、木村拓哉という強烈な「核」と、今生まれたかのような「リアクト」、そして役を彩る豊富な「アイディア」でできているというのは、前回お話ししました。

では菅田さんの演技はどうでしょう。

僕は菅田さんの演技を観ると、いつも「素」を感じます。素のまま、ただそこにいるように見えます。過剰な演技、余計な演技をしていないという意味です。「自分のまま」そこにいる、という言い方もできます。無理がない。

でももちろん、本当になんにもしなければ、普段の自分、いつもの自分で、全部一緒になってしまいますから、もちろんなにかはしているわけです。

なにをしているんでしょう。

先ほども言ったように、菅田さんは役をゴテゴテと作り込むタイプではありません。とても自然で、自由で、まるで彼自身のようで、でもどの役もみんな違っている。しゃべる速度、歩く速度、反応の速度など、役のスピード感まで変わっている(木村さんの場合この辺はあまり変わらないですよね)。

こういう役の特徴を、粘土細工のように後付けで外側にベタベタ貼り付けていくと、とてもゴテゴテした、ヤッテル感の強い、不自然な演技になります。菅田さんの演技はとても自然ですから、おそらく間違いなく、「内面的ななにか」をやっていることになります。

菅田さんに直接インタビューしたわけではないので断言はできませんが、「役をつかむ」ための「内面的な作業」の数は、その自然さ、さりげなさから察するに、そんなに多くはないはずです。おそらく一つか二つ。それがnora3的な「イメージ」や「アイテム」なのか、それとも菅田さん自身の体験の映像や記憶なのかはわかりませんが、とにかくそれを自分の内側で増幅増強して、「普段とは違う自分」「ある特定の状況下で発動する自分」として育て、内包(へそ化)し同化定着させて、役として「大づかみ」にしているはずです。

そうでなければ説明できない「自分らしさ」が、彼の演技にはあります。自分自身に一つか二つのアイテムを内包することで、「自分だけれどもいつもの自分とは違う自分」「特定の環境でのみ発動する自分」すなわち「自分だけれども自分には見えない自分」「別人のように見える自分」にアクセスしているのだと思います。

こうして見てみると、木村さんも菅田さんも、ある意味同じように「自分のまま」「自分自身で」演じているわけですが、取り組みの結果は大きく違っています。

これは、どちらが良くてどちらが悪い、ということではありません。役へのアプローチの仕方の違いです。ですが、どのようなアプローチをするかによって大きく結果が変わるわけですから、俳優を目指す人達、演技を始めようと思っている人達は、どのようなアプローチで役に取り組むかについてよーく考えてみた方がいいかもしれません。

木村さんのアプローチは、狭く険しい道と言えます。木村さんは、おそらく意識的にも無意識的にも、役を演じる前に「木村拓哉」を演じています。これは「木村拓哉」という看板が大きくなりすぎた弊害とも言えますが、しかし、木村さん自身やその周りのスタッフの方々が、それこそ何十年もかけて築き上げてきた大きな、そして大事な成果であるわけです。想像するに、今となっては「木村拓哉」は木村さん自身であって木村さん自身ではない、というパラドックスが成り立つでしょう。努力して「木村拓哉」を守り、その「木村拓哉」を踏み外さずに役を演じる。今自分がどう見えているか常に気を配る必要があり、どんな役を演じても「木村拓哉でなくなること」ことは許されない。これは難易度高いです。一般人には関係ない話と言ってもいいくらいです。

対する菅田さんのアプローチは、誰にとっても歩きやすい、楽しみながら歩みを進めることができる遊歩道です。使うものは「自分」です。そこに一つか二つの「条件」を加えます。そして、その「条件」だけは守って、あとは自由に歩いて行きます。大事なのは「条件の設定」です。なにを「条件」に設定するかで、結果は大きく変わります。だからいろいろ試して、これだっ!と思うものを探します。それを見つけてしまえば、役作りはそれでほとんど終わりです。付けた条件によって、役のスピード感や立ち振る舞いや他の表現も勝手に決まってしまいます。なので、あとは「そういう自分」として、ただそこに居れば良いわけです。

だからと言って、菅田さんが楽な道を歩んでいるというわけではありません。例えば、長く険しい道を歩くにも、綺麗な景色やちょっとした楽しみがあった方が、楽しいでしょう?楽しいほうが、その道を踏破しやすいと思いませんか?僕が菅田さんの演技を見ていて、「良いなあ」と思うのは、どの役でも、どんなに別人に見えても、いつも常に「透明感」を感じる所です。彼が若いから?いや若くても透明感の無い人は山ほどいます。歳を取っても透明感を失わない人だって少数ですがいます。菅田さんがどんな役をやっても、例えば凶悪犯とかをやっても、そういう彼本人が持っている良いところが出てくる。そういう余白を残すという意味でも、彼の「彼自身+α」のアプローチは有効だと思います。

もう一つ。菅田さんの演技の特筆すべき特徴は、「役の目的」が強く感じられるということです。作品全体を通して、または特定のシーンについて、「役の目的」というもの、このシーンで、この物語で、この役はなにを目指し、なにを成し遂げようとしているのかということを、彼は深く考え、理解し、「役の目的」を絶対に達成すべきミッションとして設定していると思います。もちろんシナリオがありますから、いかに強く目的設定したところで、それが叶わない場合も多いのですが。でも、役本人はそんなことは知らない。「今」を生きる「人間」として、菅田さんと役は一体となって、その目標達成に猛進するわけです。

菅田さんは、若い頃のディカプリオのようです。どんな役をやっても、観る人は彼に感情移入して、彼の立場として作品を体験します。しかしその天才ディカプリオ少年も、数十年の時を経て、現在はなかなかに感情移入が難しいオジサンになってしまいましたので、菅田さんには、いつまでも今の「素」の感じや「透明感」を失わずに、おじいさんになるまで「楽しみながら」演じ続けていただきたいと思います。

対する木村さんは、想像ですが、だんだん演じることが苦しくなってきているのでは?と感じます。木村さんにとっては立場的に難しいことかもしれませんが、人生のどこかのタイミングで、菅田さん的アプローチに移行できたら良いのに、と感じてしまいます。木村さんはとても器用ですし、頭も良いし、自分の思い通りに動く身体を持っているし、アイディアも豊富です。木村さんのヒット映画にもありましたが、マスカレードの仮面を外して、巨大で煌びやかな「木村拓哉」のイメージではなく、どこにでもいる裸の「木村拓哉本人」として役に取り組むことが許される日が来たとしたら、彼はそれを本当に上手にやるでしょう。それはほぼ、間違いのないことだと思います。

 

とにかく、冒頭の話に戻りますが、日本の俳優さんも、本当に良いなぁと思える人がどんどん増えてきました。僕が若かった頃、デ・ニーロやパチーノやゲイリー・オールドマンに憧れていた頃とは、状況は一変しつつあります。デ・ニーロが「タクシードライバー」で見せた、あの圧倒的驚愕的取りつく島が無い的演技は、今や「普通」になっています。人間理解、先人の模倣、新たな価値観、需要変質、市場拡大、文化のカオス化等々ひっくるめて、人間は苦しみ輝き、それを映す鏡として、俳優の演技も複雑に、マニアックに、そして高度にアップデートしていきます。

ここからはもう、遠慮や萎縮は必要ありません。日本人は日本人としてのアイデンティティーに自信を持って、胸を張って世界に打って出る時代でしょう。

 

そういう意味で、語ってみたい俳優さんはまだ何人かいるんですが。

 

でも、はー。

本日はここまででござる!

「自分自身+α」の演技で「自由」と「楽しみ」と「別人の顔」を手に入れよう!
「役の目的」を強く持ち、絶対達成すべきミッションとして設定しよう!