ヘルドッグス公開!フィルムノワール?なにそれ食べれるの?

演技的雑談
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Hello world!nora3です。

いやあ。

なんかまた始まるみたいですね。

9月16日公開だそうで。

ネットでいくつかイメージ映像的なビジュアルを見ましたが。

めちゃめちゃいい感じが画面から立ち昇ってます。

雰囲気。空気感。そして予感。

そう。予感。

この感じは、遠い昔にも感じたことがあります。

あれはいつだったか・・・え?もう30年も前?なの?

今数えてみて時の経つ速さにビビりましたが、最初にこの種の予感を感じたのは「ブラックレイン」という映画の公開前です。

松田優作さんがハリウッドに進出した、アノ伝説の映画ですね。

結果として僕は、この映画を映画館で7回観ることになったわけですが。

それから「ヒート」という映画の公開前にも似たような予感を感じました。

ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノがついに初めて同じ画面に収まった(ゴットファーザーPart2で共演したが同じ画面に同時に二人が登場したことはない)という、これまた伝説の映画です。

これも3回映画館に通いました。

 

で、今また同じような予感を感じているわけですが。

なんの話かって?

9月16日公開予定の「ヘルドッグス」の話です。

岡田准一さん原田眞人監督が三たびタッグを組んだ、今話題の映画です。

 

 

「究極のノンストップ・クライム・エンターテインメント」とか「ジャパニーズ・フィルム・ノワール」とかいろいろ言われているようですが。

先ほども書きましたが、ネット上で見られるキービジュアルから漂ってくる雰囲気が、匂いが、只事じゃない。

なにか凄いことが起きている予感がビンビンします。

原田監督。そして岡田さん。

ついにやっちゃった感じが匂ってきますけど、ホントにやっちゃったんでしょうか?

やっちゃったんですね・・・⁉︎

とか言ったりして、まだ観る前から気が早いかもですが、でもきっと日本の平均的ノワールレベルを大きく逸脱したレベルでやっちゃってるんだと思います。

そういう勘はスルドイのですよ僕は。フフ。

 

原田監督は昔からとっても意欲的な監督として有名です。トム・クルーズ主演で「ラストサムライ」の撮影が決まると、なんでもやるからとにかく現場に居させて欲しいとエドワード・ズウィック監督や制作のトムに直談判してスタッフの中の人になり、なぜか「お前やれ」みたいな感じで大村役に抜擢されて、俳優としてハリウッドデビューしてしまったというウソのような逸話をもつ人物です。

その他にも、監督として俳優として翻訳者としても、海外作品にアチコチで濃密な関わりを持ち、海外映画界の事情に精通している原田監督。

そしてその原田監督が脚本も担当し、満を持して放つ映画「ヘルドッグス」の主演に選んだのは、やはりというかやっぱりというか、岡田准一さんでした。

そして原田監督は、この「ヘルドッグス」を海外のフィルムノワール通にも是非みてほしい、と発言しています。

これがなにを意味するか。

海外の映画事情をよく知る原田監督が、勝負を賭ける作品に岡田さんを起用し、そしてそれを世界中の人に観てもらいたいと発言する。

これはようするに、ですよ。

nora3@Actingは演技のブログですから、演技に特化して話を進めますけども、それだけ世界の映画事情に明るく、それこそトム・クルーズの演技なんかも間近で濃密に経験している原田監督が、ある意味世界に対しての勝負作において岡田さんを起用するということは、ですよ。そこから導き出される結論は一つしかありません。と、nora3的には思うわけです。

なにを思ったか。

 

岡田准一は世界に通用する。

いや、通用するというよりも、世界を獲れる。

ほぼ間違いなく、確信に近い形で、原田監督はそう思っているに違いありません。

 

nora3が昔、若い頃に原田監督とちょこっと仕事をしたことがあるという話は、以前にちょっと書いたと思いますけども。

 

 

その頃から原田監督は、演技がどうとか以前に、「俳優として作品に向き合う姿勢」というものを大変重要視する監督でした。「とにかくアピールしろ!」「作品に出たいんだろ?役が欲しいんだろ?なんで引っ込んでるんだ?もっと自分を売り込め!」「どうせ自分なんか、とか思うなら、役者なんかやめろ!自分の魅力を出す努力をしろ!」といった類のことを、僕を含む役者の卵たちにいつも言っていたと記憶しています。

そして監督自身がそれを有言実行していて、前述の「ラストサムライ」の逸話だけでなく、常に当たって砕けろの精神で、自分が興味を持った作品に対しては、強烈に自分を売り込み参加して、結果それを自分の血肉にし成長していくという、監督自身の行動哲学が厳然としてありました。

その原田監督が、自作の主演に、しかも監督として自身の円熟期の作品に、3回も岡田さんを選んだ、という事は・・・もうそれは、そういうことでしょう。

 

過去現在を見渡して言えることとして、ある一部の監督と俳優の間には、「共犯関係」とも言える「確信犯」的な「強力タッグ」が成立することがあります。

例えば今回の「ヘルドッグス」も属すであろう「フィルムノワール」という括りで、完全に私見で世界の名作を見渡し、言わせてもらうとしたら・・・

 

例えばジャン=リュック・ゴダールとジャン=ポール・ベルモンド。

例えばフランシス・フォード・コッポラとマーロン・ブランド。

例えばマーチン・スコセッシとロバート・デ・ニーロ。

例えば日本では、村川透と松田優作とか(僕にとってのジャパニーズ・フィルム・ノワールの最高峰は未だにこの辺です。狐狼の血も良かったけれど。悪しからず)。

 

そういった強力なタッグを、原田監督と岡田さんは構築しつつあるのかな、と思います。

特に今回、岡田さんは主演のみならず、「格闘デザイン指導」という、この手の映画のキモとなり得る部分を担当していて、監督の信頼が超厚い、というか、これはある意味主演を獲るより凄いことじゃないかなと思います。

ネットでそのことがよくわかる記事を見つけたので、ちょっと引用してみますね。

 

”岡田さん 「原田監督はお芝居の延長線上でのアクションを強く求める監督。お芝居とアクションの境目なくキャラクターが立つような構成を考案することがテーマになります。本物の動きのなかに映像的なギミックを入れたり、キャラクターの個性やそのキャラクターの行動の狙いにあった動きを考えて提案しています」”
”原田監督 「岡田くんは、こういうアクションができます、こういうのもできますって、まるで死の商人が武器を売るように、次から次へとアクションをプレゼンテーションしてくれる。改めて、その引き出しの多さに驚きました」”ORICON NEWSDrama&Movieより引用

 

どうですか。

なんて素晴らしい共犯関係でしょう。

ちょっと調べましたが、岡田さんは格闘技系、相当極めているようです。狭く深くというよりも、作品やシーンに活かすアイデアを豊富に持つために、あえて広く浅く、一つ身につけたら次へ、次を体得したらまたその次へと、長い時間をかけて多種多様に取り組み続けているそうです。そう言ったアクションのディテール、役の身のこなしの些細な違いが、実は大きな説得力となり、観る者にとってはなによりの信じられる構成要素になるということを知っているんですね。

そういった努力を積み重ねた上で、監督に提案をする。積み重ねてきたものが血肉になっていることを、なにより自分の身体が知っているから、自然と言葉に自信が宿り、説得力を持つ。もし提案を退けられたとしても、そこに固執することもない。それは自分に出来る事のほんの一部に過ぎないので、その案がダメでも、代わりにいくらでも代案を出すことができる。

うーん。

これこそプロフェッショナル。

カッコイイです。

映画観る前からシビレちゃいます。

 

というわけで、公開前の期待度は、nora3的にはかなり高いです。

残る問題は。

実際に作品として「フィルムノワールの傑作が誕生しました!」と叫びたくなるような成立の仕方をしているか否か、です。

フィルムノワールの定義、みたいなものも存在しているようですが、僕はよく知らないし、そういうのは重視しません。

僕がフィルムノワール作品に常に期待し、重要視しているのは、例えば「手の震え」であり「高揚感」であり「興奮冷めやらず」であり「目付きの鋭さ」であったりします。

なんの話かって?

映画館を出てきた時の自分の状態の話です。

すっかり主人公になりきって、もしくは映画の世界に浸りきって、立ち姿も喋り方もなんだかいつもと違くなり、目付きもなんだか悪くなって、肩で風切って歩み去る、というアレです。

男なら誰でも一度や二度は経験あるハズ。

女子の場合はどうなんでしょう?

とにかくアレこそが「フィルムノワールの持つチカラ」でしょう。

だって他のジャンルの映画観ても、なかなかあんなオカシナ風にはなりませんもん。

そういう意味で、古今東西、男子はみんなフィルムノワールが大好き!と断言しちゃいます。

勝手にしやがれ

時計じかけのオレンジ

ゴッドファーザー

タクシードライバー

狼たちの午後

最も危険な遊戯

太陽を盗んだ男

蘇る金狼

野獣死すべし

その男、凶暴につき

ブラックレイン

ヒート

まだあるけどこのくらいにしときましょう。

過去に僕をシビレさせた映画たちです。

「えーその映画フィルムノワールなの?」とかツッコむのはやめましょう。

だって、気持ち的にシビレたとかじゃなくて、物理的に、ホントに手がシビレて止まらないんですよ、ブルブルブルって。

そして、そうやって長年ブルブルしてるうちに、僕はブルブルの本質、シビレの根っ子に気がつきました。

あのシビレは、カタルシスの名残りです。映画のどこかのシーンでカタルシスに至り、映画館を出た後もまだカタルシスの余韻が残っていて、それでブルブルジンジンするわけです。

よって、結論。

シビレる映画 = カタルシスに至る映画 = フィルムノワール なんです。

僕の中では。

 

さて。

「ヘルドッグス」を観て、僕はシビレるでしょうか。

・・・シビレるでしょうね、きっと。

たぶんおそらくまちがいなく。

問題はすでに、それはどのくらいのシビレなのか?といった点に移っていると思われ。

感電死したりして。

 

原田監督。

岡田准一さん。

期待しておりますよ。

 

我をカタルシスの高みへと誘いたまへ。

アーメン。

 

シビレる映画 = カタルシスに至る映画 = フィルムノワール!
努力を血肉とし、そこに立脚して提案し、なおかつそれに固執しない。それは自分のほんの一部で、いくらでも代案を出すことができる。それがプロ!
自分をアピールし、自ら売り込むのはみんな苦手。でも本当にそのままでいーのか?