感動を生み出す方法!

演技の方法/訓練
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Hello world!nora3です。

前回は、僕の中に深く根付いていて、今はもうそんなに表面に出てくることはないけれども、なにかきっかけがあると思い出したように盛大に噴出してくる「松田優作愛」について書かせていただいたわけですけども。

とにかく男にモテる人でした。

男というのは、カッコいい男がいると、まずは内心反発心を抱いたりするものです。

「・・・カッコつけやがって。気に入らねえ。どうせ中身空っぽだろ?」って感じで。

特に相手のカッコ良さが中途半端な場合には、そんな風になりがちです。

松田優作に日本中の男が熱狂したのは、彼のカッコ良さがハンパなかったからです。

反発心など持つ余地もないほど、徹頭徹尾完全無欠の圧倒的カッコ良さというものを、同種同性の生物として、直感的に、肌感覚で、彼の中に感じ取ったからです。

それはもちろん、彼の持つルックスだけの話ではありません。

むしろ彼の「内面」のあり方こそが、動物的直感的ルートを経てこちらの心を掴み、揺さぶり、引きづり回し続けているのだと思います。

 

 

で、今回ですが。

上の記事で、「良い演技と良い俳優はイコールでは結べない」「感動と技術は直接関係ない」ということをちょっと書いたんですが。

この辺のことがわかりづらいかもなぁと思ったので、今回はこの問題について、もうちょっと考えてみたいと思います。

 

同じく上の記事で、「プロ野球」と「高校野球」の話をしました。

プロ野球の方が技術もパワーも戦術理解度ももちろん高くて、お客さんとしてはレベルの高い野球が見れるわけですけども。

でも、どうでしょう?

観て感動できるか。

どれくらい惹き込まれて、どれくらい夢中に、没頭して観れるか。

どのくらい手に汗握り、こちらも感情が動くか。

まあ、人にもよるかと思いますが、こういう視点で見ると、高校野球の方に魅力を感じる人も多いんじゃないでしょうか。

 

野球はわかりやすい例であって、こういうことはどこにでもあります。

他のスポーツはもちろん、例えば料理だって、絵だって、歌だって、家事だって、普段の会社の仕事だって、技術がある方が成果物のレベルは高くなるわけですが、「感動」や「魅力」という視点で考えると、ちょっと話が違ってきます。

「技術がないヘタクソ」が一念発起し、必死になって取り組んだ料理や絵や歌や家事や仕事は、それだけで感動を呼んだりしますよね。

子ども。後輩。初心者。新入社員。こういった、まだ充分な技術が身に付いていない人が、自分の技術を超えて、強い気持ちを持って、そしてついになにかをやり遂げたのを見た時に、その成果物の内容に関わらず、人は感動を覚えるものです。よね?

 

では、「高い技術を持った人」は、誰かを感動させられないんでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

スポーツでも音楽でも料理でもなんでも、私たちは超一流の技術に触れて、強く感動した経験を持っています。

 

この二つの事実はなにを表しているか。

技術と感動は直接関係ない、ということです。

技術が低くても高くても、人が感動することは「可能」です。

でも「常に」ではない。

技術の低い人が、気持ちも目標も低いままに、モチベーション低く生み出した成果物は、人を感動させません。

技術の高い人が、その技術の貯金の範囲内で、特に試行錯誤することもなく、いつもの雛形にはめて作り出した成果物は、キレイでレベルはそこそこ高いとしても、人はそれに感動しません。

昔すごかった人が、歳をとって凡人となり、過去の遺産だけで細々と食いつないでいて、だけどプライドだけは過去のままでやたらと高い、みたいな例が非常に多くて、僕はずっとそれが疑問でした。

今でも昔と変わらぬ技術を持っているのに、なぜそうなってしまうんだろうと。

 

「感動」のキーは「心」でした。

「感情」が「技術」を超えた場合のみ、人は感動できます。

子どもはまだ技術的に未熟で、でも常に心が輝いていますから、心が技術を超えやすく、結果として人は子どもがなにかに取り組んでいるのを見て感動することが多い。

高校野球の例も同様です。

一方、大人は生きている時間が長く、すでにそれなりの技術を身につけていますが、歳と共に心が輝く頻度は減りがちで、心が技術を超えるような機会も減っていきます。

言い換えれば、技術を持っているからこそ、その範囲内で冒険することなくタスクが済んでしまうので、技術を超えるような心を発動する必要がない、とも言えます。

では、大人は歳を取れば取るほど、自分が感動を生み出すことから遠く離れて、ただ子どもたちの輝きに目を細めることしかできないんでしょうか?

 

もちろんそんなことはありません。

僕はこんな光景を観たことがあります。

その人はおじいさんで、全盲の人でした。

一緒にお花見に行ったんですが、その人は誰よりも「花」を「観ようと」していました。

低い枝の花に手を伸ばし、花びらを一枚一枚丁寧に触り、花に鼻を近づけて、その匂いを嗅いでいました。

 

自分の「技術」「能力」を超えて、なにかを成し遂げようとする姿。

その姿に人は感動するんだと思います。

 

というわけで、だいぶ遠回りしましたが、ようやく演技の話です。

「自分の技術・能力を越えようとする心」が感動を呼ぶとして。

俳優にできることは、なにか。

「技術」はもちろん必要です。「心」が超えやすいように「技術」を低く保つ必要はありません。

というか、俳優というのは「無いものを生み出し」「在るものを忘却する」仕事なので、技術無しにはなにもできません。確かな技術に立脚すべきです。だから技術は、なんとしても高めていかないといけません。

しかし技術だけをある程度高めて、そこにアグラをかいていれば、前出の「凡人」の仲間入りです。

昔すごくて今は凡人。いっぱいいますよね。

「心」を放っておけば、誰でも自然にその「罠」に落ち、そうなってしまいます。

 

ではどうするか。

「心が技術を超える」「感情が技術を上回る」ためには?

2つ、考えられます。

 

1つ目は、「技術」を身につけるのと並行して「心」も養い、成長させ続けることです。

いつでも「技術」を超えられるだけの「心」を常に準備しておきましょう。

平たく言えば、「人として成長しましょう」ということです。

俳優としてどんどん技術を身につけても、それに埋もれてしまわない、豊かな自分を形成し続ける必要があります。

技術が先行すれば、「技術の人」になってしまいます。

技術がどんなに高まっても、常に心が先行する「心の人」でなければいけません。

「技術」は常に「自分の中」になければいけない、ということです。

「技術の中」に自分がいてはいけません。

「大人になれ」というのとはちょっと違います。「子どもみたいになれ」でもありません。

「自分を豊かにする」「人として成長する」というのは、「新しい自分をどんどん発見していく」ということじゃないでしょうか。

「自分」を面白がり、ワクワクしながら「新しい自分」を探し、育てて、「自分の領域」を拡大していく。

それが「使い古しの、ずっと同じ場所にいる凡人」を回避する方法だと思います。

過去に同じようなことを書いた記事があるので再掲しときますね。

 

 

2つ目は、「目的」です。

そもそも「技術」は「目的」を達成するための道具にすぎません。

それなのに「技術を見せる」ことに主眼を置いてしまい、ズバらしい技術をものすごいレベルで空回りさせてしまう勘違い例が後を断ちません。

そもそも「目的」は「技術」だけで達成できるものでしょうか?

スポーツの名勝負を思い浮かべてください。

世界的な芸術作品とかでもいいですが。

それらは「技術」だけで成り立っているでしょうか?

むしろ技術は一要素にすぎないでしょう。

そこで勝負を決するのは、「心」であり「強い目的」です。

「強い目的」を達成するために「心」が動き、その時身に付いている「技術」を無意識的に繰り出すんです。

もし技術が足りてなくても、そんなことお構いなしに心は前進し続けます。

なぜなら、そこに「強い目的」があるから、です。

 

俳優にとって言えば、作品にも、各シーンにも、自分の役にも、「目的」があります。

台本には書いてありませんが、常に「目的」があるんです。

それを「強く」「必ず達成する目的」として設定することで、必死になれます。

心が、感情が、技術をたやすく超えていきます。

技術などただの道具なので、あちこちにポロポロこぼしたり投げ捨てたり蹴っ飛ばしたりしながら、なりふり構わず眼を見開き、髪振り乱して、目的に向かってただ疾走激走爆走してればいいんです。

 

気がつけば、そこに勝手に感動が生まれているわけなので。

 

松田優作さんは、まさにそういう俳優でした。

というか、これは結構イケてる「松田優作論」ではなかろーか。

 

なんか今日はちょっと書きたいこと書けた気がするな〜。

自分の技術、能力を超えて、なにかを成し遂げようとする姿その姿に人は感動する!
技術は常に「自分の中」に!技術がどんなに高まっても、心先行の「心の人」であるべし!
身につけたら技術のことは忘れろ!ただ目的に向かって疾走しろ!松田優作のように!